ひとことば

虎跳峡 絶景

中国の観光名所には「はずれ」がない。あまりに広い国土に散在する、あまりに多くの観光地の中で、「名所」の称号を勝ち取ることは容易でないからだ。

長江が金沙江という名前に変わる麗江の近くで、虎跳峡は流れを狭めている。中国の地図を広げると、ここが辺境の地であることは明らかだ。

20世紀も終わりになってようやく、虎跳峡は注目され始めた。辺境の新参者にも関わらず、瞬く間に観光名所の地位を獲得しただけのことはある眺めが、旅人を圧倒する。


眼下の流れが一体何なのか分からなくなるほどに、谷は深い

虎跳峡を縦走したこのとき、20世紀はまだ10年残っていた。虎跳峡を知る人はほとんどいなくて、われわれのパーティは初めての日本人であった可能性が高い。

予備知識は峡谷から帰ってきた旅人の感想だけだ。口伝えの、しかも異なることばを介した覚束無い情報を解釈する能力が、旅人たちには不可欠な時代だった。

帰ってきた旅人たちは、一様に同じ興奮を共有していた。そしてぼくも、その仲間に入ることになる。


道路は整備されていない。断崖にしがみついている細道を歩いてゆくしかない。少し足が滑れば、遙か崖下の濁流まで連れてゆかれる。そうなったら助かる見込みはなさそうだ。

少なくとも一晩、普通は二晩を要する旅の夜は、天井裏でネズミが運動会をする粗末な宿ですごす。電気も、水道も、もちろんない。宿に雨露をしのぐ屋根はあっても、余分な食材があるかどうかは保証の限りではない。

そのかわり、いやになるほどの絶景がある。


虎跳峡を縦走する旅の大半は陰鬱だ。断崖に挟まれ、太陽の当たる時間もわずかな崖っぷちの細道を、黙々と歩く。

それでもときどき、青空がのぞく。その青空は、ほんの短い時間で旅の陰鬱さを無かったことにしてくれる。絶景という評価は、こうして動かぬものになっていった。

いくつもの流れが絶壁と断崖の細道を引き裂く。このときは幸運にも水量が少なく、水はきらきら輝いていた。しかし、旅人たちを立ち往生させる凶暴さをしばしば発揮する。