ひとことば

上海大厦の前から見たガーデンブリッジ

租界の残り香

呉淞江にかかるガーデンブリッジを渡る。こちらは日本租界だった虹口、橋の向こうは英米共同租界だった外灘だ。

上海では虹口のはずれの宿に泊まっていた。すし詰めの連結バスには乗らず、あか抜けないけれどなんとなく落ち着く日本租界のあとを、外灘や南京路まで歩くのが好きだった。

このころはまだ、上海の空は広かった。租界時代、同じような街並みを見ながら通りを歩いた日本人が大勢いたはずだ。


英米共同租界、そろそろ帰りのラッシュだが、このころはまだ自転車が主役だった。

ガーデンブリッジを渡った英米共同租界は日本租界に比べると荘厳で、はるかに見映えがする。連結バスのために雑然と張りめぐらされた電線も、この街の風景を都会に近づけるのに一役買っている。

自動車も増えてきたころだったが、まだまだ多くの上海人の足はペダルの上にあった。ラッシュアワーが近付くころでも、すっと車の列が途切れ、租界の通りを流れる時間が昔に巻き戻される。


刻々と光線が変わる夕方

夕方、年月を重ねた街並みが美しい影をつくる。ステッキを手にした英国人が現れたり、かつて上海を跋扈したマフィアが襲いかかってきても、違和感のない風景だ。

しかし、怪しげな「魔都」だった上海は、共産党の時代をくぐり抜けて、すっかり毒気が抜かれていた。このころの治安は悪くなくて、暗くなっても緊張感はなかった。

レストランがだんだん増えてきた南京路で夕食を済ませ、夕涼みのはじまるころ再び同じ通りに戻ったりした。


物干し竿がかざされた租界時代から残る建物。生活臭が漂う。

最初の旅では、租界を設けて上海を継ぎ接ぎにしていた国民がこの街を歩くことに、後ろめたさを感じながら、上海を歩いていた。

中国語もいくらか上達した2度目、3度目の旅では、違ったものが見えてきた。租界時代を知る老人たちは、意外にも昔を懐かしんでいる。この街でいちばん丁寧に迎えてくれたのは、彼らだった。

上海は租界の残り香をしたたかに利用しながら、20世紀の後半をくぐり抜けてきた。