ひとことば

生きたままの鶏を鷲掴みにする

朝市

下町の路地では毎日のように朝市が開かれた。太陽が昇りきらないうちから、品物を売り買いする人々で朝市は賑わう。

昔ながらの下町の家並みは、じっくり見つめられると「ぼろ」が出る。屋根も柱も、定規をあてがわれると隙間だらけだ。

隙間だらけでガタガタの街でも、活気にだけは溢れていた。商われる品物も「生きる」ということをいちいち感じさせるものばかりだった。


水餃子の露天。出勤前の人々が朝食用に買い求めてゆく。

考えられるありとあらゆるものを動員して、上海の人々は商売に取り組んだ。余分な鍋釜があれば、屋台に出店と相成る。

決して衛生的とは言えない、しかしこの上なくうまい屋台で水餃子をすすりながら、この街の人々の暮らしぶりを見つめる。

「商売もの」としては小さな鍋が、毎朝こうして上海人の胃袋を満たそうとしていた。小さな鍋は健気に木の蓋をカタカタいわせて水餃子を茹であげてゆく。


客の手も店主の手も逃げようとする鶏を素早くつかまえる

「生き生きとした朝市」だ。こんな月並みな表現しか思い浮かばない。

早朝から汗が滲んでくる夏の日、男たちは半裸になって商いを始める。男たちも品物も、暑さでけだるい。そう、品物の大半は生きている。

カメラに気を取られこっちを向いた隙に、鶏は飛び上がろうとした。しかし、男の手も客の手も、鶏を逃がすほど緩慢ではなかった。


物干し竿がかざされた租界時代から残る建物。生活臭が漂う。

朝市から続いていたのは、洗濯物が吊され、隙間だらけの家並みが続く路地だ。水たまりだらけの路地には、生活の臭いが充満する懐かしい「泥臭さ」があった。

隙間も水たまりも埋められて、上海はすっかり小綺麗になったらしい。泥臭くて懐かしい街並みは、上海人の脳裏から消されてしまったようだ。

どの国にもそんな時代がある。世話になった上海のために、いつでも振り返ることのできるWWWのスペースを少しだけ割いて、この風景を留めておく。