泉のある広場に戻ってきた。水に親しむ人は変わっても、流れる水はそのままでいる。
のどが渇いているわけではない。手や顔で水を楽しむ心地よさを、この街の人々は知っているから、いつも誰かがいる。
ベオグラードには北からやってきた。噴水のように見て楽しむのではなくて、水に触れて楽しむ生活に、ヨーロッパを離れつつあることを感じる。
理髪店の窓に、日差しを遮るブラインドが降りている。太陽の光を一滴残らず採り入れようとする北の街の夏とは違う。南に進んできた証拠を見つけながら、ベオグラードを歩く。
だが、ガラス戸もドアも開け放して客を呼び込もうとするほど、この街は南ではない。陽の光に脂っこさはなくて、人々も、あっけらかんとした南の顔つきはしていない。
結局、理髪店には入らなかった。
戦車の傍らでデートをする男女がいる。説明の付けようでは、戦争の悲惨さをアピールする格好の素材になるカットだ。
だが、悲壮感はまったくなかった。悲惨だなんていうキャプションを付ける方が、よっぽど失礼だろう。それは、彼らの人生を否定する意味になるからだ。
戦争も、日々の暮らしも、淡々とやってきて、淡々と去ってゆく。戦車のそばにだって、なにもかもに気付かなくさせるほど楽しいひとときが通り過ぎることもある。
ベオグラードにもドナウ川が流れている。上流のブダペストと同じように、流れはのっぺりとしていて、川というよりも池のような水面だ。
ドナウを望む砦の上で過ごす人々も、水面のように穏やかだ。顔立ちは区別が付かないほどそっくりなトルコ人のように、脇目もふらずおしゃべりに熱中したり、外国人に構うこともない。
10年が過ぎた。時間は昨日、今日、明日の順番に、ドナウは黒海へ向けて、淡々と流れ続けているのだろう。