エルサレムには、門とアーチがたくさんある。この街を歩くことは、門やアーチをくぐることでもある。
いちばん大きな門のひとつ、ダマスカス門には、三日月の飾りが掲げられている。人通りの少ない門の外から一歩中に入ると、まるで違う街のようなにぎわいを見せていることもある。
門やアーチの穿たれた壁は、エルサレムのいろいろな息づかいを区切る役目も果たしてきた。暗い空間をくぐるたびに、この街のおかれた今を反芻する。
向こうから男が走ってきた。暴動が起きたりしたのなら、ぼくも走らねばならない。なにがあったのか尋ねてみる。
答えは単純明快だった。「走りたかった」。そのひとことだけ吐き出すと、男は走り去ってしまった。野暮な質問をしたことを後悔した。
早く抜けたい。薄暗がりの出口が近づくと、知らず知らずのうちに足早になる。薄暗がりは、この街を走らせているのかもしれない。
向こうには明るみがあったり、そのまま暗がりが続いていたり、門やアーチにもさまざまな表情がある。
曲がって向こうが見えない門。階段のあるアーチ。それぞれが、他にはない、ただひとつの存在であることを語りたがっている。
岩のドームが見えてきた。向こうの明るさと、こっちの暗さの違いに、目が追いつかない。今日はこのアーチをくぐれる。しかしこの街では、明日もくぐれるかどうかを断言することはできない。
反対側を見通せない門に、自動車が飛び込んでゆく。ブレーキランプが見えなくなるまで、目で追いかけた。
時間が止まったように見える門にも、確実に今はやってきている。自動車がくぐり抜ける様子を見守りながら、少しだけ安心した。
後を追って、小走りに門をくぐってみる。門やアーチの暗がりがある限り、この街は走る力を失わないはずだ。