黒い服のユダヤ人もまた、この街を住まいにしている。
見ているだけで笑ってしまうパレスチナ人やアラブ人の民族衣装とは違う。まじめな顔をして視線を送らないと怒られてしまいそうな雰囲気が、黒い服を取り囲んでいる。
嘆きの壁も、金属のフェンスで囲まれている。そばに近づくためには、異教徒もキップ-ユダヤ教徒の直径10センチぐらいの帽子-をかぶらねばならない。
上半身を小刻みに前後させながら、彼らは壁に祈り続ける。理解できない。なんのためにこうしているのか、わからない。
祈りが終わっても、話しかけてみる勇気は起きなかった。なにを話題に選べばよいのか、見当が付かなかったからだ。
宗教と、生活と、そして政治を、ここでは切り離せない。すべてが一体になってひとつの世界を作ることが、この空間が存在する前提条件だから。
壁の前を離れると、黒い服はいかにも唐突で、突然目の前に現れると、いつも立ち止まってしまった。黒い服はいつも、その様子を気にするでもなく、そのまま過ぎ去ってゆく。
この街はなにもかもが石でできている。街の外の乾燥した地面も、石ころだらけだ。不満を投げつけるためにも、石は使われた。
それでも太陽は平等だ。誰にでも同じように、そして何も言わない石にも同じように、影を付けてくれる。
疲れる。どんどん持っている力が減ってゆく。いや、減っていくと言うよりも、高速道路を走るタクシーで、みるみる数字の増えるメーターを見つめるのに似ている。
3月、祭りがあった。ユダヤ人の家々は、どこも大宴会だ。街の通りでは泡の出るスプレーを吹きつけあう。ぼくもスプレーを買って、息切れするまでエルサレムを走り回った。
黒い服ではないイスラエルを、もう少し見ればよかったと後悔した。