水辺のある街は絵になる。適度に凹凸があれば、なおさらだ。
ブダペストもそんな街だ。ドナウを見下ろす王宮の丘を、懐古趣味なケーブルカーが観光客を乗せて上り下りする。
ちっちゃな車体に実用性はまったくない。しかし、ここは観光地だ。わずか1分ばかりの道のりにしては法外なケーブルカーの料金も、非日常性が許してくれる。
丘の上にならぶ建物もまた凹凸に富んでいて、非日常性を強調している。とりわけ尖ったマーチャーシュ教会は、この街がいちばん輝いていた時代を象徴する記念碑でもある。
ブダペストには訪れる者を圧倒しようとする重厚さがある。丘の上にならぶ建造物も例外ではない。
ただ大きいというだけなら、世界にはいくらでも好敵手がいる。しかしここにあるのは、大きさに加えて、ときに耐えられなくなるほどの重みだ。
しかし今も、そしてこれまで繰り返されてきた大半の時間にも、この街に与えられた役目は華やかではなかった。負け戦と、失敗した抵抗運動と、よそから来た支配者が続く。
この国では奇妙な地図をよく見かける。もっとも広かった時代のハンガリーを描いた地図だ。あれほど国を小さくしてしまったトルコ人でさえ、こんな馬鹿げた地図を飾ろうとはしない。
病んでいる。現在の不甲斐なさと、かつて幾度か味わった栄光との落差が、重みを痛々しいほど明瞭にあぶり出す。
帰りは歩きにした。丘の上下を均一な勾配でまっすぐにつないだケーブルカーとは違って、まどろっこしい。
「明るいか暗いか」という二者択一ならば、ハンガリーは「暗い」。経済はぱっとしない。自殺と離婚が多く、そして人口は減少傾向にある。なにが楽しくてこんな国に遊びに来るのか、理解しかねる部分は多い。
しかし、安っぽい選択肢は似合わない。まどろっこしい王宮からの坂道のように、陰鬱になるほど反芻を強いて、ついには再び訪れさせようとする。
旅は終わってからの続きの方が、むしろ長い。