ひとことば

向こう側のホームに止まった電車の窓から手を振る悪ガキ。

カイロ-人びと

1987年夏の夜、空港だけ見せてもらったカイロが、その後も気になっていた。トランジットホテルのエレベータには「車掌さん」がいて、タバコを買うのも、ミネラルウォータを買うのも、なんでも代わりにやってくれた。代金にはその都度労賃が上乗せされるわけだ。

今回は違う。早朝に到着する飛行機を選んだ。噂どおりに客引きがいて、タクシーに誘導しようとするが、「早起きは三文の得」だ。どいつもこいつも覇気がなくて、悪くはない車をつかまえることができた。

タクシーの運転手を煙に巻いた外人も、電車の窓からはめざとく見つけられてしまった。


屋台のわきで、ニヤリとこちらを見る男。

ピラミッドにも行っていないうちから、ハンハリーリ-カイロの下町-を歩き始める。目に留まった食べ物は、片っ端からつまみ食いしてゆく。

小さいけれど人が途切れないターメイヤ-野菜コロッケ-の屋台に並んでみた。アラビア語の聞き取りには耳が馴染んでいない。値段を聞いてみたものの、返事を理解できない。適当な札を出してみる。合っているかは分からないが、釣りも返ってきた。

用事もないのにポーズを取りたがるのは中東の連中の習慣だ。だが待てよ、男に色目を使う必要もなかろう。ちょっと吹っ掛けられたのかもしれない。


ありきたりのスナップ写真になってしまったが、こいつらはよく動く。落ち着きがないんだなあ。

アレキサンドリアから遊びに来ていた彼女たちと、しばらく一緒に過ごす。地中海の街で暮らしているらしく、明るい。そして、世話焼きだ。ついでにうるさいときている。

こうなるともはや笑うしかない。なにもかも派手におごってくれる。ぼくも強引に、派手におごり返した。

彼女たちも、ぼくも、ずいぶんと散財したようだ。けれども、財布の中身を数える気は起きなかった。


品のよいお坊ちゃんという感じの男の子。こう見えて「おしゃべり」である。

夕方は毎日、シーシャ-水タバコ-を楽しんだ。どこの店でも常連のおじさんたちが、いろいろ世話を焼いてくれる。

いや、これは彼らにとって娯楽だ。正体不明の外人がいた今日のシーシャは、いつになく楽しかったのだろう。

品の良さそうな男の子がお父さんを迎えにきた。お父さんは一瞬名残惜しそうな顔をしたが、すぐに安心した。英語を習いたての倅の方が、よっぽど話好きだったからだ。